考える/自由になる

思春期はいつ終わるのか。思春期は定義に沿えば子供から大人へと移り変わる時期であり、teenagerとよばれる時期のことを指す。そこには幾多の煩悶がつきまとう、如何にして自分は大人たちが作ってきた社会に適応するべきであるのか、そして如何にして自分が生まれてからの時間を過ごしてきた子供たちの社会から抜け出すべきであるのかという難解な問いに身を浸し。自分たちとは違う人種、即ち大人が創出した社会は居心地が悪く(当然のことだ、若さに付随した常識などはごく僅かなものにすぎないのだから)、一方でその僅かな常識やその他見聞きしてきたものに裏打ちされた自我は、子供が過ごす社会にも同様に居心地の悪さを感じる。同年齢の人間たちが稚拙に映る。およそ知覚しうる二つの世界はどちらも身の丈に合わず、他にも何らかの世界は存在するのかもしれないがそれを知覚することも叶わず(そもそも知覚したとしてそこに適応しうるとは考えにくい)、まるで世界は自分を拒絶しているかのような思いをすることになる。そして僕も常にその思いを持っている。

或いはある瞬間に終わるのではなく、なんらかの過程を経ることによって自然と過渡期を終えていくのかもしれない。おそらく、キャンパス・ライフと呼ばれるものがその「過程」なのだと、そう思っている。思春期の思春期たる所以は、僕が知りうる限りではやはりその幾多の煩悶にある。朝目を覚ましてから夜眠るまで、常に付きまとう肩身の狭さ。二つの世界の板挟みにあってそれを感じるのなら、 板挟みを抜出たときは思春期が終わっている。キャンパス・ライフはよく人生の夏休みと形容される。ここに細かな定義付けはおよそ必要ない。大学に合格する頃には相応の教養を身に付け、ある程度の金銭も持ち、一方で若く溌剌とした外見も持ち、そして子供に与えられた自由も未だ持って。そして何より、そのような状況下で人は多くの恋愛をする。セックスをする。多くの人間は恋愛経験を蓄え、確立した恋愛哲学を思い思いに実践しながらセックスに行き着く。板挟みの感覚など保つ必要もなく。中高生ともあれば、発達しすぎた感性は暴力的に規定された(起きる時間と寝る時間を規定されるのみか、場合によっては服装や嗜好まで制限され得る)生活の中にあって、あまりに息苦しい。そういうものから開放された生活の中に、感性は初めて羽根を伸ばし、自らを縛るものを今や大人が必要としなくなったと考え、自分でお金を稼ぎ食べていく、即ち大人の作った社会に自然と適応していくのだろう。

終わらない。僕のは。板挟みの感覚。 常に居心地の悪さを感じ、与えられた自由を部屋に閉じこもるという形でしか実践できない。居心地の悪さを感じる必要もなく、集団で酒に酔って不必要な感受性を棄却すればいいだけ。それなのに僕は自由を自らに適用することをせず、活字に溺れた意気地のない自分を紫煙で煙らせて隠し、明日も明後日も夕景を眺めてずっと馴染んできた厭世観にまた身を浸す。