空気の色

「空気」という観念に色は存在しない。「空気は何色をしている?」と聞かれて「そうだねぇ・・・。何年か前にニューヨークで食べたハンバーガーに挟まっていたピクルスのような色かな」なんていう答えを返す奴は、まず間違いなく何らかの診療が必要になるでしょう。一般に、ワシらが存在している空間の多くを占める「空気」は、形もなければ色もない。 

しかし一方で、僕は例外的に空気に色がつくタイミングを2つだけ知っている。 それは、曇った日の夜が明けきる寸前と、陽が沈みきる寸前。この2つの瞬間、本当に僅か10分程度のものだけれど、空と空気は同じ色に、存在しうる全ての空の色をその内に含んでいるかのようで。意味深長で暗いブルーが世界を埋める。それは透明でありながら「青」という色の観念をその内に持つ水のように、透明な色を持って空間を染める。この独特なタイミング(日本語においては薄明/薄暮という綺麗な表現があるけれど)が僕は大好きだ。

ついこのあいだ、とある友だちと「厨二病とは何か」という話をした。勿論数値的な定義、即ち中学2年生に代表される子供から大人への過渡期に人がとりがちな行動の、不思議な符合を病気に准えて揶揄したものだけれど、果たして僕はそこに、より抽象的でかつ誰もが思い当たるような、もっとプリミティブな観念が潜んでいるように思えた。そしてそれは、十代が持つ若さそのものが導く恥かしい行動に先立った、攻撃性や繊細さにより発せられる特有のパルスだという結論に至った。十代其れ即ち恥である。恥が持つ輝きは、あらゆる創作において題材にされることを思えば明らかなように、極めて大きな魅力を持っている。

これらの2つの思想、つまり「彩色された空気」と「恥」について、これらを鮮やかに結びつける素晴らしい映画を観てしまった。1987年制作、レオス・カラックス『汚れた血』でアール。

十代の鬱屈とした厭世観を、鮮烈な色彩で疾走感たっぷりに描き出した大傑作。ストーリーは正直どうでもいいタイプの映画で、故にここでもさして触れない。細かい設定よりもキャラクターの激情のようなものを感じ取り、吠えたくなるような、そういう映画。とにかく劇中にはBGMが少なく、やもすれば素気無い進行の中にも、ただ鮮烈な映像だけが美しい。この映画が語られるとき、殆どの人はその美しい色彩に言及するけれど、僕も全くもって同感で、先述の「彩色された空気」をこれほどまでに美しく描ききった映像には初めて出会い(上のパッケージの写真でもその色彩感覚が凄まじいことが分かる)、いたずらに感動した。

十代における「恥」は子供から大人への移り変わりの過程に生ずるもので、これと「彩色された空気」、すなわち夜~朝/夕~夜の移り変わりの描写を結びつける「境目」のメタファーとして僕はこの映画を捉えた。

一方でこの映画は青のみを基調に進められるのでもなく、夜のシーン、それも蒸し暑い夏の夜のシーンも多い。そしてこれがまた鬱屈とした少年の心象表現にいい味を出していて、この映画の一番の見所も夜のシーンにある。無味乾燥の淡々とした音像表現の中で、唯一デヴィッド・ボウイの「Modern Love」にあわせて主人公が夜のパリを疾走するシーン、それを真横からの視点でパンしながら映すわずか2分程度のシーンなのだけれど、80sのリヴァーブがかかったドラムが印象的なポップミュージックが、まさに十代の慟哭そのもので、走り出したい衝動に駆られた。

そう、思えば夏には嫌なことしかなかった。孤独、失恋、挫折・・・常に独りで夏を過ごした僕。例えるならこんな感じ・・・ 悶々と日々を過ごし昼夜は逆転、好きな女の子に送ったメールも返ってこなければ、友人は皆充実した日々を過ごしているように見える。昼過ぎに起きるが特にすることもなく、午後のロードショーを見ながら強烈な暑さをやり過ごす。時間を経過させるために時間を使った。バイトもしなければ、塾にもろくに行かなかった。部活なんてもっての外だ。気がつけばもう夕方で、でもまだ陽は沈みきっておらず、かといって強烈な橙の西日が差すでもない。暗いブルーに彩色された空気が、ただ時間の経過を告げる。僕は死にたくなる。夕食後、することもなくダラダラとネットを眺める。気づけば家族は寝静まり、日付も変わっている。やり場のない焦燥感に耐え切れず外に飛び出し、爆音で耳を塞ぎながら駆ける。夏の夜の匂いを感じながら。

こういう十代の全てが、この映画にはあった。

高校を卒業するにあたり、ひと通りの恥はかいてしまった気がする。 週末には卒業式がある。もうあの慟哭を、あれだけ鮮烈に僕が感じることはないだろう。おそらく僕は今、散々述べてきた過渡期の最終地点に立っている。中学時代の友人たちも、中学時代とは比べ物にならないほどに各々が個性的な3年間を送ってきたみたいだ。長かった鬱屈とした過渡期の最後に、この映画を観れて本当によかったと思う。主人公と同様の慟哭を、まだ自分の内に秘めているうちに。そしてそこから成長して抜けだそうとしている自分に、ある程度の誇りを持ち始めた今だからこそ、最後の慟哭に身を委ねよう。窓の外に広がっている春の夜の暖かい空気の中を疾走しよう。爆音で刻むリヴァーブの効いたエイトビートに乗って。

制服を脱ぎ捨てる今、もう一度厨二を爆発させるんだ。